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史跡26~50

市指定史跡 松村家の井戸の縁石

指定年月日: 昭和55(1980)年1月10日

松村家の井戸の縁石

洲鎌部落の松村家は下地の主、川満大殿の子孫生家である。
この宅地内に推定約500年前の物と考えられ、直径120cm、高さ65cm、内巾90cmの丸形のくり抜き縁石がある。この縁石は松村家と盛島家の双方にあるが、盛島家はひとまわり小型である。
川満大殿主は1498年にベウツ川堀割工事、1506年池田矼を沖縄本島より石橋建築専門家を招いて造り上げた偉人であるから、同時代に宮古でも石工が数多くいたであろうことは容易に推測できる。しかし、この井戸が大殿主の手で造られたか、2代目の手で造られたかの記録は松村家には存在しない。

市指定史跡 ピンザアブ遺跡

指定年月日: 昭和56(1981)年3月27日

ピンザアブ遺跡

ピンザアブは横浜国立大学教授長谷川善和氏らによって発掘調査された結果、人骨やネズミ類、シカ類、ヘビ類、イリオモテヤマネコのものと思われる化石、石器等が発見されている。同教授の鑑定によると人骨はおよそ2万年前の旧石器仁の人骨であることがわかり、ヤマネコのものと思われる化石等、考古学上、古生物学上貴重なものであることが明らかとなった。
2万年前の旧石器人の化石や石器が発見されたのは、全国でも数少なく、日本の最南端の発見であり、宮古の歴史を知る上でも今後大きな根源となるだろうと思考される。
このように多くの貴重な化石の発見されたピンザアブは歴史的、考古学的に貴重な意義をもち、今後さらに緻密な発掘調査をしながらその保存に努めなければならない。

市指定史跡 フナハガー

指定年月日: 昭和56(1981)年7月28日

フナハガー

この井戸の背後にある自然植生の森には、伊良部ナカトズ御嶽がある。昔、この一帯は集落フナパ村があり、北方にウポザト村、東方にはウポドウ村があったといわれている。この井戸(洞泉)が発見されたのは、1430年頃と推定され、この井戸は、前記三村の村建ての中心となった。その後、1735年頃は、外部からの移住者もあり、往時の集落遺跡を想記させる重要な史跡である。
この井戸の神は、女神で部落の西方に所在する神里ガーの神とともに(夫婦神として)ウヤナズガーのミフツヌス(美しい女神)オンギヌス(冥護)の神として厚く信仰されている。
1961年頃からは伊良部製糖の工場用水源として活用されている。

市指定史跡 神里ガー

指定年月日: 昭和56(1981)年7月28日

神里ガー

神里井戸の神里とは神様の集まる処の意味だと考えられている。この井戸は、神様が集まっていろいろの協議をする場所として信仰が厚い。1430年頃この一帯はススキや芽の生い茂った窪地であった。時たまここにいた牛が前脚で土を掘っているのを不審の思い、掘ってみたところ洞泉があった。この事が井戸の起こりを言い伝えている。発見以来集落の人々の唯一の井泉として村民の形成発展に多大の影響を及ぼした。今でも「生まれ元島の水」として神事に使われ人々の信仰の的となっている史跡である。

市指定史跡 ダキフガー

指定年月日: 昭和56(1981)年12月23日

ダキフガー

字伊良部島のヤスルギーの傍にあります。
井戸周りの面積は39平方メートル、台形をひしゃげたような形で、辺は6.2m、3.3m、5mと3.3mになっています。
この井戸の由来は、昔、この一帯にダキフ(タン竹)の群生があり、ダキフの中の井戸なので「ダキフガー」と名付けられたようです。
井戸は、円形状、堀り抜き、壁面石積みで直径2.3m、深さ2.5mで伊良部と字仲地が分村する前に建立されたと考えられます。
年代的には1500年~1700年頃大親時代と思われます。

市指定史跡 住屋遺跡(俗称:尻間(しいま))

指定年月日: 昭和57(1982)年10月21日

住屋遺跡

住屋遺跡は、概ね15~17世紀初期頃の集落跡である。
 昭和57年1~2月、5~6月の2回にわたる発掘調査の結果、15世紀頃と推定される竪穴住居址1基と16~17世紀初期と推定される平地住居址・石敷住居址・「円形状建物跡」・竪穴炉址・溜井戸等の遺構が検出。遺物では、土器片、石器(石錘、たたき石)貝製品(貝錘、貝さじ)、鉄製品(刀子、短刀、くぎ)、古銭(熙寧元宝、無文銭)、ガラス玉、炭化麦・米、獣魚骨、貝殻等が出土している。
 このように同一遺跡で竪穴―平地―石敷住居址と、年代差を明瞭に示した遺構等が検出されるのは稀であり、当時の人々の生活様式や住居形態の変遷を知る上で重要な遺跡である。
この地は1629年に在番仮屋が設けられた場所でもある。在番とは島役人の指導・監督のため中山王府が派遣した役人のことで、ふつう2年交替で在勤、その滞在中の宿舎を在番仮屋と称していた。
1879(明治12)年3月の廃藩置県直後には警視派出所が設けられて県政がスタートしたがその後、宮古島役所が開設されるにともなって、役所長官舎、支庁長官舎、宮古民政府知事公舎、宮古群島政府知事公舎、琉球政府宮古地方長公舎として重用されてきた。
上記のように当史跡は15~17世紀初期の集落遺跡として、また、旧藩時代から近代に至る政治の中心として、直接民衆にかかわる諸制度の変遷を知る上でも重要な史跡である。

市指定史跡 ミヌズマ遺跡の井戸

指定年月日: 昭和58(1983)年3月24日

ミヌズマ遺跡の井戸

この井戸は、久松地区公民館の東南1.5kmの地点にある。この一帯は広範囲にわたってミヌズマといわれる集落遺跡となっており宮古式土器や中国製陶磁器等の破片が採取される。
また、井戸の近隣には東ブーンミャー、西ブーンミャー跡と言い伝えられている一角もある。
井戸の構造は、円形状掘抜井戸(直径1m、深さ現在約8m)で、周囲壁面には土止めの石積みが施されている。
伝承によれば、この一帯には14世紀中頃まで西美野・美野・美野我麻等の集落があったが当時、佐多大人を主長に各地を攻略した与那覇原の軍勢に襲撃され、一朝にして、老若男女とも全滅したということである。
この井戸は、かつてミヌズマに居住した人々が生活用水を確保するため掘削したものと思われるが、14世紀中頃、戦乱にまきこまれ消滅していった集落の遺構とみなされるだけに重要な史跡である。

市指定史跡 マムヤの屋敷跡・機織り場・墓

指定年月日: 平成3(1991)年4月9日

マムヤの屋敷跡・機織り場・墓

マムヤの屋敷跡は、保良元島の南方約200mほどの小丘陵にある。現在は周りの土が除去され、うず高い状態になっている。機織場は、平安名崎の保良漁港入り口より西方120mの北側岸壁にあり、畳2枚程の広さの空洞になっている。墓地は、同漁港入口より東へ約180mはなれた休憩所の隣にある巨石をくりぬいたようにして作られている。
マムヤの時代については不明であるが、野城按司との悲恋を歌った「マムヤのあやぐ」や民話が残されている。それによると、ニフニリ(香草)のように香るマムヤは人もうらやむ絶世の美女として歌われている。マムヤは妻子ある野城按司と恋仲になるが、按司に裏切られ岩穴に隠れて機織りに精をだす。上布を織り上げたマムヤは平安名崎の断崖から身を投じたと伝承され、悲劇のヒロインとして今に伝えられている。

市指定史跡 野城泉(ヌグスクガー)

指定年月日: 平成3(1991)年4月9日

野城泉

福北集落の東北の海岸に沿って東西に延びる琉球石灰岩丘陵(標高約65m)に野城遺跡がある。その南西部にある野城泉は、石灰岩台地(標高50~67m)裾野に湧水口の周辺を切り石積み技法によって築造された“降り井(う がー)”の形態をもつ自然湧水で、現在も水量は豊富である。
野城泉は、野城遺跡に係わりがあると見なされる野城按司の集団が飲料水源として利用していたと考えられる。野城遺跡はほぼ13~14世紀頃の遺跡として知られているが、湧泉に切り石積みが施された年代は不明である。
野城泉は現在でも付近の人々に利用されている。浦底の海から帰途には水浴びなどによく利用されていた。最近は、浦底漁港への道路も新設されるなど畑地かんがい用水として施設も整い、流水をためて広く活用されている。

指定史跡 金志川泉(キイ°キャーガー)

指定年月日: 平成6(1995)年4月12日

金志川泉

金志川泉は、金志川豊見親の屋敷跡より150mほど西側にある洞泉である。水壺は広くほぼ円形で水深は1mほどである。開口部から水壺までおよそ30段の階段が設けられている。
『雍正旧記』(1727年)には「金志川但洞川、堀年数不相知」とある。また、『宮古・八重山両島絵図帳』(1647年)には、おろか間切(7ヶ村)の中にきんす川村の名がある。更に「仲宗根豊見八重山入の時のあやご」に「金志川の豊見親金盛とよ/城なぎ弟なきたつとよ」と謡われていることからも、金志川村と関係のあることがうががわれる。
金志川泉は、潮の干満によって海水が入り込むので、後年飲料水としては利用されなかったようだが、金志川村および金志川豊見親との関連を予想させる貴重な洞泉である。

市指定史跡 保良元島遺跡

指定年月日: 平成6(1994)年4月12日

保良元島遺跡

当遺跡は、平安名崎の根本近く、標高50~60mの台地に形成されてた14~15世紀頃の集落遺跡である。1965年H・メリヒャール氏と金子エリカ女史によって、その一部が発掘調査され、宮古産の土器の他、宋、元、明時代初期の中国製陶磁器片が出土している。
『元史』『温州府志』によれば「婆羅公管下密牙古人」が元の延祐4(1317)年大小2隻の船で南方交易の途中、嵐に遭い中国福建省永嘉県に小舟が漂着した。小舟に乗った14人は救助され、泉南(当時の貿易都市)から密牙古方面に行く船があったので、無事に帰国できたという。婆羅は保良に、密牙古は宮古に比定されている。
当遺跡には、元島御嶽やブンミャー跡、「竜の家(やー)」と呼ばれる洞窟がある。当遺跡は集落跡にとどまらず、海外交易の拠点という可能性も残されており、宮古の歴史を解明する上でも重要な遺跡である。

市指定史跡 ピャーズ御嶽 (クンマウキャー)

指定年月日: 平成6(1994)年6月25日

ピャーズ御嶽

伊良部島東側牧山にある御嶽です。祀られている神様は赤良友金(あからともがね)で1380年ごろ久米島より来島して、高度な農耕文化、鉄の農具を伝えたと言われています。
ピャーズの由来は、琉球では昔、神様が座っていた所をヒジ「比地」といい、神様が住んでいた所を「比屋地」(ピャーズ)と言っていました。
また先島では、最初にできた古い集落を「フン」と言い、フンがなまって古見になったと言われています。ですから下牧(フン)の前の方(マブキュー)があるのでフンマブキャー「クンマウキャー」になったと考えられます。
伊良部島では、もっとも霊験あらたかな御嶽です。
ちなみに、イラウユークイ、ナカチユークイ、フンナカユークイ、ナガハマユークイに祀られている神様も赤良友金です。 

市指定史跡 乗(ぬー)瀬(し)御嶽(うたき)

指定年月日: 平成6(1994)年6月25日

乗瀬御嶽

伊良部島南東端渡口の浜への入口の入江に接してあります。
祀られているのは、遠見村の首長だった大金主(うぷがにしゅう)の娘「玉メガ」です。
乗瀬御嶽の祭祀に「カンウリ」というのがありますが、これは、琉球の交易時代に伊良部が関わっていたことを立証する内容のものです。また、「玉メガ」が神様にめとられたのが、父大金主が雨乞いの祭りを習っての八重山からの帰りの晩であったことなどから、16世紀頃できた御嶽ではないかと考えられます。
これは、ピャーズ御嶽から伊良部本島、そしてソマリ(字伊良部)、オプサト(遠見村)への移動が1390年頃から1400年の始め頃であったことと、琉球王朝の宮古への影響力が見られることと(蔵元が与人に命令を出していること、蔵元は16世紀に設置)まだ文化や技術、祭祀を八重山(南)から学んでいたことなどからの洞察です。航海の守護神としてあがめられています。
乗瀬御嶽のかたわらには、玉メガの父「オプガニのトュミャ」の拝所があります。

市指定史跡 佐和田ユークイ

指定年月日: 平成6(1994)年6月25日

佐和田ユークイ

佐和田線から西に200m、佐和田の集落街から北へ200m程の所にあります。
祀られている神様は、大世之主(うふゆぬしゅう)で、大世之主は1457年沖永良部から伊良部に渡ってきます。
元々の佐和田ユークイは白鳥にあったようですが、現在地への移動は1644年の烽火の令の後と考えられます。
西村(現在の字佐和田)の発祥は、黒浜御嶽に由来しますが、その後、大世之主が来島して西村で農耕技術を広め、佐和田ユークイに祀られます。
また、大世之主を沖永良部からともなってきた人々をナーマといいますが、当時、航海術を有した人々が南西諸島を往来していたことを立証する上からも、貴重な御嶽です。
南区の他のユークイの神様が赤良友金であるのに、佐和田ユークイの神様が大世之主であることは、集落発祥が別であることを示唆しています。

市指定史跡 カナマラアブ

指定年月日: 平成6(1994)年6月25日

カナマラアブ

伊良部島南側の長山の農道78号線の中頃から北に300m程の所にあります。
深さは、54.5mの縦穴で、ほぼ海面と同じ深さまで行っています。
洞口は、幅0.8m、長さ1.8m、直下で35mの所に第1着地点があります。
途中20mの所には横穴も発達し、コウモリの住処(すみか)のようです。横穴の底は粘土で、西の方向に発達しているものと南西方向に発達しているものとがあり、西の方向に発達しているものは、つらら石、石筍、石柱などが見られます。
また、南西方向に発達しているものは、奥の方で井戸のような縦穴になっており、下の方で、元の縦穴につながっています。
カナマラアブからは、人骨、ノロジカ、ミヤコウマ、ミヤココキクガシラコウモリ等の化石骨が多数見つかっています。
特に人骨は、2万年程前の人骨と推定されます。

市指定史跡 ウスバリアブ

指定年月日: 平成6(1994)年6月25日

ウスバリアブ

伊良部島南側の長山の農道78号線の中頃から北に300m程のカナマラアブの斜め向い(東北側)にあります。
深さは35m程で、洞口は幅2m、長さ4m程で直下14m程の所に第1着地点があり、大きさは南北に25m、幅10~15mの洞穴になっています。
第1着地点から北方向に12mの横穴が発達しています。
第1着地点の西側の壁には、幅7m、高さ3mの礫層があり、人骨や動物の骨がたくさん埋まっています。また、東側の壁にも同様に幅4m、高さ2mの礫層があり、表には、シャコ貝、サザエや人骨が露呈しています。
第1着地点の南側には洞穴があり、深さ18mの所で第2着地点に到達します。
第2着地点は幅4m、長さ7mの楕円形になっています。
ウスバリアブからは、8~10才の子どものアゴの骨と歯が21本見つかっています。

市指定史跡 タウワインミィアブ

指定年月日: 平成6(1994)年6月25日

タウワインミィアブ

ピャース御嶽(クンマウキャー御嶽)から町道105号線(一周道路)へ向かう町道と展望台への三叉路から50m程南、道路脇30m程の所にあります。
深さは65mで、底の方には池があり、魚が住んでいます。
この魚は、目が退化し白色で、数十万年から百数十万年前に閉じ込められたものと推定され、国内でも伊良部にしか存在しない貴重な物になります。
魚は、相当数いるものと予想されますが、今後、その保護対策が課題になってきます。その他、小型のエビやカニも見つかっています。
池は、海面とほぼ同じ高さで、潮の干満の影響があることから海と通じていることがわかっています。淡水と海水の混ざった池で、淡水は伊良部島の淡水レンズの緑にあたっていると思われます。
タウワインミィアブからは、その他にもノロジカやコウモリ、ケナガネズミなどの化石骨が見つかっています。

市指定史跡 アブガーNo.1

指定年月日: 平成6(1994)年6月25日

アブガーNo.1

伊良部島南側の長山の農道78号線の中頃から北に400m程のウスバリアブの東側の森の中にあり、地積の上からは、ウスバリアブと同じ地番にあります。
深さは36m程で、洞口から14mの所に幅1.5m、長さ2m程のテラスがあり、テラスからさらに19m程の所で最深部に到達します。
洞口は高さ2~3mの岩が浸食された壁になっており、ドリーネが確認できます。
テラスから最深部までは、ふたつの井戸があるが、壁面の角礫がはげており、落石の危険があるところです。
同一個体に属すると推定されるかなり大きな人骨群がみられ、完全なものも含まれています。胸、腰、助骨、肩、腕、足等の骨が多数出土しています。人骨の埋蔵量は県内でも最大ではないかと言われています。その他動物の骨もたくさん出土しています。

市指定史跡 アブガーNo.2

指定年月日: 平成6(1994)年6月25日

アブガーNo.2

伊良部島南側の長山の農道78号線の中頃から北に450m程のアブガーNo.1の東側の道路の傍にあります。
深さは11.5m程で、下部の広さは幅10m、長さ20mです。下部の北東部には階段があり、容易に洞底に降りることができます。
床は、ほぼ水平で、階段の下はセメントで整地されています。広間の北西分は、つらら石の4m程のものも見られます。
2次生成物が発達していますが、相当土や植物が堆積しています。
広間の南側(道路側)には、洞口に半円状の溶食跡があり、その下部には、不自然な落盤状の散岩と土の混ざった小山があります。
その奥の方にもつらら石が発達しています。

市指定史跡 ヌドクビアブ

指定年月日: 平成6(1994)年6月25日

ヌドクビアブ

カナマラアブから南西方向に1.5km程の森の中にあります。
深さは22m程で、洞口は2カ所あります。戦時中は日本軍が使用していた跡もあります。
大きな洞口は幅3m、長さ25mで北東側から階段で降りることができます。もう一つの洞口は、天然橋でくぎられ幅3m、長さ7mの大きな井戸状の縦穴です。
階段から洞底に降りると、広間になっていて右側はつらら石が発達しています。
床は、礫と土、腐食植物が混ざっており、気根や樹根が垂れて底まで届いています。
入口から南西にのびた洞穴の奥にはカマドの跡があります。カマド跡の横には堆積物の小山があり、そこから洞穴は南方向にのび、10m程の下りになっています。

市指定史跡 ティーズアブ

指定年月日: 平成6(1994)年6月25日

ティーズアブ

基幹農道沿いに、農道長山線から白鳥崎に向かって500m程の東側の森畑に隣接してあります。
畑は窪地になっており、洞口は井戸の口の様で縦穴になっています。
北東方向以外は、回りを岩で覆われています。洞口は二カ所あり、大きいのは幅5m、長さ12m、もう一つは幅1.5m、長さ3mです。
深さは20m程で、床の部分は幅15m、長さ20m程の広間になっており、真ん中に8m四方の石積みがあり、東側に傾斜しています。床には、散岩と泥、腐食植物が堆積しています。
今後、化石骨等の発見が高いところですが、地質学的にも貴重な洞穴です。 

市指定史跡 黒浜御嶽

指定年月日: 平成6(1994)年6月25日

黒浜御嶽

伊良部島の西北西、字佐和田はずれ、佐和田の浜珊礁湖に面する所にあり、兄妹産神を祭ってあります。
島の村建ての伝説を持つ御嶽で、兄妹神の最初の子はブフズ(魚)で、二番目の子はアパ(魚)、三番目の子はウナズ(海蛇)だったので、それぞれ海へ放ちます。
悲しんで、神様に相談すると、夜、ユナの葉を二人の間に置いて寝なさい、との教えがあり、そのとおりに暮らしていると、四番目に人間の子が誕生し、島中に広がっていったとの伝えです。
この御嶽での祈願は、旧6月の酉(とり)の日で「六月願い」と言われています。
佐和田、長浜に生まれた女の人や、黒浜御嶽にお願いをして子宝に恵まれた夫婦は毎年、この祭りに参加する習わしです。
この「願い(ニガイ)」が終わると、旅に出ている人の無事を祈って「プカウザキ」を海に向かって行います。
黒浜御嶽は以前植物群落で天然記念物に指定されていましたが、群生が変化してしまいました。群生植物は、アコウ、タブニキ、ガジュマル、オオバギ、ビロウ等で十年前までは、八重山椰子もはえていました。

市指定史跡 クバカ城跡

指定年月日: 平成7(1995)年12月11日

クバカ城跡

クバカ城跡は入江部落の西側入口にある。久場川按司の居城の跡で雍正旧記(1727)には、「長さ31間(60m)横25間(50m)」門は末方に向かう。その由来は城主クバカ按司は強力無双の人であったと伝えられている。
また、「宮古島記事」(乾隆旧記1752年)宮古島洲鎌村クバカ按司八重山島にぎやものと勇力くらべ由来の事という記事が見える。
クバカ城は、宮古で城という名のつくものでただ1つ城壁の形で残している。その他、宮国の好善ミガガマと喜佐真按司にまつわる話等がある。

市指定史跡 海軍特攻艇格納(かくのう)秘匿(ひとく)壕(ごう)

指定年月日: 平成16(2004)年4月15日

海軍特攻艇格納秘匿壕

狩俣の南西海岸丘陵地に所在する。本壕と脇豪合わせて、総延長約300mの規模で、六ヶ所の出入口を有する海軍313設営部隊により築造された。1945(昭和20)年3月1日から終戦まで第41震洋特別攻撃八木部隊の特攻艇(人間魚雷)の格納秘匿壕として使用された。八木部隊の隊員は狩俣の基地で出撃を待ったが、連合軍の宮古上陸が回避されたため、終戦まで特攻艇が出撃することはなかった。
この秘匿壕のほか、連合軍の上陸に備えて荷川取のウプドゥマーラや久貝のウパーマ、トゥリバーなどに特攻艇の秘匿壕が設けられており、戦争末期の宮古における作戦や戦況などを知る上で貴重な戦争遺跡である。

市指定史跡 大川(ウプカー)

指定年月日: 平成17(2005)年5月30日

大川

掘削年代は明らかでないが、『雍正旧記』(1727年)に「大川掘年数不相知暦代二成及大破候、康熈五拾六丁酉年修補牛馬之用水所」と記述されており、康熈56(1717)年に補修工事がなされていることから、18世紀初頭にはすでに大川が存在していたことがうかがわれる。当時の人々の暮らしにとって、牛馬は重要な労働力であった。数多く存在する井泉のなかで、牛馬専用を目的としたものは極めて稀である。
戦後、水道の普及や牛馬飼育の激減により、大川を利用することがなくなり何時しか土砂に埋もれてしまった大川を、2004(平成16)年10月、文化財総合整備事業の一環として発掘し、約50年ぶりに全体の様相を市民へ伝える事ができるようになった。

市指定史跡 仲屋金盛ミャーカ

指定年月日: 平成19(2007)年4月25日

仲屋金盛ミャーカ

「仲屋金盛ミャーカ」は、忠導氏仲宗根家の東方、外間御嶽の北方にあって、忠導氏一門では、仲屋金盛の墓と言い伝えている。
墓の規模や形態は、大半が土砂に埋もれて明らかでないが、石棺の蓋と思われる縦210cm、横120cm、厚さ22cmの巨石が露出している。
仲屋金盛は、16世紀初頭に宮古島の主長であった仲宗根豊見親の嫡子である。
弟に祭金豊見親や知利真良豊見親らがいる。
「八重山のオヤケアカハチの乱」(1500年)、「与那国の鬼虎の乱」(1522年頃)に父豊見親にしたがって従軍。父豊見親の没後、その跡を継いで宮古島の支配者となったが、1532年頃宮古島の東南部で勢力のあった金志川那喜太知豊見親を殺害したかどで首里王府の問責にあい、自害した人物である。
この事件により、豊見親の称号は廃止され、代わって、首里王府の任命による頭制が施かれることになった。
因に、忠導氏正統系図家譜は、金盛について「玄武 仲屋豊見親西外間為小祖、就不届不継家督」とのみ記している。
16世紀初頭、宮古で起きた歴史的諸事件並びに世情を考える上で、この「仲屋金盛みゃーか」は重要な史跡である。