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有形・無形文化財

市指定有形民俗 キャーザ井

指定年月日: 昭和51(1976)年7月5日

キャーザ井

新里元島時代に掘られたと思われる古い井戸で掘年数不明である。
明和津波後、部落が現在位置に移ってからも専用井戸として利用され、水道のない頃の人々の生活をささえ、貴重な水資源として重宝がられてきた。

市指定有形民俗文化財 スカプヤー御嶽

指定年月日: 昭和51(1976)年7月5日

スカプヤー御嶽

この辺一帯は宮国元島で、スカプヤー御嶽はンナフカ祭りの根所として住民の尊崇する御嶽である。この御嶽には、白鳥と化して飛んできたルリツボの伝説があり、毎年9月中キノトウ末日3日間は牛馬も外へ出さずンナフカ精進をして祭りをすることになっている。
このあたりの海岸は、昔の貿易場の面影を残し土中からは450年前の青磁の破片などが出ている。
宮国部落一帯は、明和の津波で現位置に移ったと言われているが明らかではない。

市指定有形民俗文化財 魚垣(カツ)

指定年月日: 昭和54(1979)年5月11日

魚垣

字佐和田の浜西方、下地島空港の北側滑走路埋め立て地200m程の所、カタバルイナウ(内海のイノー)にあります。
現在の「魚垣(カツ)」は、1850年頃善平マツさんによって造られたと言われている。
漁の形態は、佐和田の浜の遠浅を巧く利用したもので、周囲を石で囲み、潮が満ちるときに魚が入り、潮が干くとき出口を一つにし、出口に網を張っていて、魚を採るというものです。
構造は、北側から南へ放射状に石を積んで、左側(南に向かって)は300m程で、右側は60m程が残っており、放射の頂点側が出口になっています。
高さは、海底の地形にあわせて、高いところで1m、低い所は50cm程です。
域内の面積は、3ヘクタールほどで、石垣は二重構造(二重積)で頑丈にできており、出口は水路の幅が50cm、長さは3mくらいである。

市指定有形民俗文化財 赤崎御嶽

指定年月日: 昭和56(1981)年2月17日

赤崎御嶽

大世の主豊見親と唱え、農耕万穀、五穀豊穣を掌る神で子方母天大が生んだ12神の一体といわれる。ツヌジ御嶽の本殿に当る。
例祭は毎年3回申午の日に行われる。赤名宮とともに下地の根所として、太古からの島の信仰が深い。境内は老樹うっそうとして繁り、霊気ひしひしとして迫り、自づと神を感じ、頭の下がる思いがする。海中に突き出た赤崎は、神井(ぬか井)があり、例祭は下地中学校西側隣の神畑(ぬか地)の粟から取れた一握りの糠によって、その年の凶疫病、台風の有無を占う神事が、司の手で行われている。
後で下地ノ頭職についた、下地恵和が延宝元年与那覇与人の時、御手礼改帳の宰領で上国し、帰途逆風に遭い中国に漂着、凡ゆる辛苦の末8年後に生存者28人とともに帰島した事件(匁年の記)があった。恵和は赤崎の熱烈なる信仰で、航海中も神を唱えて信仰に精進した。域夜真夜中頃船は陸地に着き、上陸したら赤崎御嶽下の浜であった。一同神徳により無事帰島した事を感謝し、以来守護神として、崇敬し毎年祭に費用を献じ、例祭を主宰した。

市指定有形民俗文化財 ツヌジ御嶽

指定年月日: 昭和56(1981)年2月17日

ツヌジ御嶽

大世の主をまつる赤崎御嶽の遙拝所で(仲取り)毎年旧暦6月、8月、10月の申午(きのえうま)例祭が行われ、また旧暦11月には御願が行われる。御嶽の由来によると大昔赤崎御嶽の祭日に出かけたが途中大雨にあい、途方に暮れて大岩のかげに雨宿りし晴れるのを待った。雨はなかなかやまず赤崎御嶽まで行けないので一計を案じ大岩にプーイ物を供え、その事情を大世の主に報告して帰路についた。それ以来雨宿りした岩を赤崎御嶽の神体として拝むようになった。今では、赤崎御嶽にお参りするのは、司や神女たちで一般の人々はツヌジ御嶽から拝むようになっている。
コンクリートの社殿は昭和7年に島内外の浄財寄進によって建立され戦災で更に修理を加えたが、老朽化が進み、昭和53年に更に島内外の寄付によって造営され神々しい偉容をまして参拝者は後をたたない。

市指定有形民俗文化財 真屋(まや)御嶽(うたき)

指定年月日: 昭和56(1981)年2月17日

真屋御嶽

宮古上布の創製者、稲石とその夫、下地親雲上真栄(別名もてあがーら)を祀ってある。真栄は宮古の主長仲宗根豊見親の与那国鬼虎征伐のとき従軍して軍功のあったもてあにぎゃもりの子孫と伝えられている。洲鎌村与人として上国の時、逆風にあい唐に漂着した。たまたま唐に来ていた琉球王朝の進貢船で琉球に帰るとき、またも逆風に襲われた。このとき船のろくとう綱が切れ船は沈没寸前であった。もてあがーらは荒れ狂う海の中に飛び込み必死の活躍のすえ、ようやくろくとう綱を貫き替え多数の人命を救って官船は無事に琉球に帰ることができた。このことが上聞に達し、尚寧王は彼を召して賞詞と下地親雲上の位階を授けた。
真栄の夫人稲石は、上地与人完□の娘として生まれ、真栄の夫人となった。夫の出世に感激した稲石は報恩の決意固く3年間苦心研究のすえ宮古上布の製造に成功したと伝わる。

市指定有形民俗文化財 赤名宮

指定年月日: 昭和56(1981)年2月17日

赤名宮

この御嶽の御祭神は御栄加主(うえかぬす)と称し、公的な事業・官職栄達の道を司り、成就隆盛隆昌の途を拓き給う霊感あらたかな神様である。
子方母天太神が養育した12方の神々は、池間島の大主御嶽に祭られ人命を守り給う尊い神様を初めとし、赤崎御嶽(大世の主)は農耕万穀を掌り給い、平良の阿津真間御嶽(蒲戸金主)はすべての人事諸事の記帳を掌り、西里添のピマル御嶽(美真瑠主)産児出産を掌る兄弟の神々であるが、その他の神様は詳かでないと宮古史伝に記してある。現在の神殿は1965年5月20日改築、さらに鳥居と他1部が昭和61年に改築され宮古島の住民より厚く信仰されている。

市指定有形民俗文化財 野加那泉(ヌガナガー)

指定年月日: 平成3(1991)年1月8日

野加那泉

野加那泉は、比嘉部落の西側およそ500mの小字野加那佐事にある小さな湧泉である。この泉は、琉球石灰岩の切り石で積まれた直径約5m、短径約4m、高さ約0.7mの半楕円形で、その北側壁の三分の一ほどの高さから清水が湧き出ている。二段構えに作られた構造の北側は飲料水、南側は牛馬洗い用に利用され、尚、使用後の水は水田用水として使用されていた。
この一帯には、ヌガナガーの水を利用して栄えた「イス゜原里」という集落があったと伝えられている。この集落はいつ村立し、いつ消滅したのか、あるいは移動したのか、記録は何も残されていない。また、集落の痕跡を見い出す遺物や遺構等も確認されていない。
昭和40年、上水道の全面普及によって野加那泉の飲料水も利用されなくなり今日に至っている。

市指定有形民俗文化財 イスゥガー(磯井)

指定年月日: 平成6(1994)年5月9日

イスゥガー

狩俣集落の発祥にかかる井泉で、狩俣のウヤーン(祖神祭)の祭祀の神歌タービの中で、概略「創世神豊見赤星テダナフラ真主は最初にタバリ地に降り、良泉を求め北へ進み、カナギ井、クルギ井、ヤマダ井を経て最後にイスゥガーを見つけ、そこの泉水は水量は少ないけれども旨いので、この水ならば神に供えて折るシトギ水になるとして、イスゥガーの上方フンムイを定住地とした。」と歌われている。
また、口碑によると創世神テラヌプズ(女神)とイスゥガーに棲む大蛇の化身である若者との間で蛇婿入りの神話があり、生まれてきた女児は後の女神マヤーマツメガで、こうして狩俣のムラ建ては始まったと伝えられ、大蛇も後に男神アサティダとしてテラヌプズとともにウプグムトゥに祀られたという。
イスゥガーの水は今でも、村落の始祖神を祀るウプグフムトゥの祭祀時には御茶湯の水として必ず加えられることになっており、ムラの祭祀と深くかかわっている。このようにイスゥガーは狩俣村落のムラ建ての歴史と民俗を知る上からも貴重な井泉である。

市指定有形民俗文化財 クスヌカー(後の井)

指定年月日: 平成6(1994)年5月9日

クスヌカー

狩俣集落に古くから伝わるウャーン(祖神祭)祭祀のニーリ(神歌)の中で、「時の酉長と伝わるウプグフトゥヌ(大城殿)が井戸の掘削を思い立ち、甥と相談し、村人たちを呼び集めマイツ(手斧)、ブナ(大斧)などの鉄製道具を使い、クスヌカーを掘ったところ、うまい水が豊富に湧きだしたので、人々は余りの嬉しさに村を挙げて四日三晩祝った。」と歌われており、歌詞で理解できるように飲料水が乏しかったころの人々の水に対する渇望や願い、鉄の伝来を語っている。
また、クスヌカーは狩俣の民俗行事シツ(節)と深く関わっており、旧暦5・6月の申午の日の未明、娘たちは、友達同士連れ立ってクスヌカーの前方の海に入り、胸高の深さのあたりをシツのアーグを歌いながら西に東に歩く。夜が明ける頃海から上がりクスヌカーの水を浴びて身を清める。いわゆる脱皮再生の若返りの水、バーミズ(若水)である。
このようにクスヌカーは古い時代の主要な水源としてはもとより、シツの祭事や若水の民俗礼儀のほか、鉄器の伝来や集落の歴史と深く関わり、それらを知る上でも重要な井泉である。

市指定有形民俗文化財 ぐすくべのアギイス(力石)(七又・新城・西中)

指定年月日: 平成14(2002)年5月14日

ぐすくべのアギイス

戦前は各集落で青年による力試しがさかんに行われていた。角力もその一つで、今日でいう重量上げに相当するのが「アギイス(力石)」である。各集落の青年会場(現公民館)には大小二個のアギイスが備えられていた。娯楽の少ない昔は、農作業を終えた青年らが三三五五集まりアギイスの力試しを行っていた。大きな石は70~80kg、小さな石は50~60kgはあったという。アギイスは肩まで持ち上げる方法と、両手で頭上まで持ち上げる方法があった。各集落のアギイスは力試しが行われなくなった戦後、行方知れずになったのが多いようだ。現在は、七又、新城、および西中の集落で確認されているにすぎない。アギイス(力石)はぐすくべの民俗を知る上でも重要な資料である。

市指定有形民俗文化財 七又のミーマガー

指定年月日: 平成14(2002)年5月14日

七又のミーマガー

七又集落から東南へ600m程の崖下にある湧泉である。七又地区は湧泉に乏しく、飲料水源の確保には想像以上の困難を極めたとみられる。当泉は崖下にあるため岩伝いに降りなければならず、水運搬はかなり重労働であったことが予想される。明治の末頃、住民は岩盤を削ったり、岩石をはめ込んだりして階段をつくり、その通路の確保に時間と労働を費やしている。岩盤を加工した階段は10段ほどみられる。当泉は七又の集落の唯一の水源であり、節まつりにも「ンマリガー」の水として使用したという。戦後、七又公民館の東側に井戸(ンナカガー)を掘削したが水量乏しく、依然としてミーマガーにも昭和30年まで通ったという。ミーマガーは水と生活を考える上からも貴重な湧泉である。

市指定有形民俗文化財 山川ウプカー

指定年月日: 平成14(2002)年5月14日

山川ウプカー

山川集落から北へ500m程の所にある湧泉である。『雍正旧記』(1727年)に「山川但洞川。堀年数不相知」と記され、間切時代から知られている湧泉である。ウプカーの水源は近在の住民の飲料水源として上水道の全面普及(1965年)まで重要な役割りを担ってきた。ウプカーの水は下の海浜に流れ肥沃な土地を形成してきた。通称長間田(ナガマダー)と呼ばれる水田である。当時の尚真王が仲宗根豊見親に与えた土地でも知られる。その後、長間田は有数の米の生産地として知られ、豊見親の末裔が管理してきた。湧泉までの坂道も石畳道に改良され広く利用されてきたが、キビ栽培の発達に伴いその役目を終えた。ウプカーは民俗的にも重要な湧泉である。

市指定無形民俗文化財 ヤーマス御願

指定年月日: 昭和56(1981)年2月17日

ヤーマス御願

来間最大の行事である旧暦八~九月の甲(きのえ)午(うま)の日から 二日間おこなわれる “ヤーマス・プナカ” に関連する御願も、 スムリャー、 ウプヤー、 ヤーマスヤー の 三ブナカ を中心としながらも御願に関してはほぼ同様である。その由来は、神への感謝の心を失った村人たちは日ごと鬼に食い殺されていったが、川満村の卵から生まれた三兄弟の働きで神の真意を理解し、祭祀 “ ヤーマス・ブナカ ” が始まったと伝えている。

市指定無形民俗文化財 川満の棒踊り

指定年月日: 昭和56(1981)年2月17日

川満の棒踊り

川満に伝わる厄払いの踊りで島言葉では「ぼう・っふ」と呼んでいる。
伝えによる踊りの由来は、皇紀2346年頃、川満に「プーキ」(疫病)が大きく流行し、村人達が次から次へと死んでいった。そのため各家庭では悲しみに明け暮れる毎日が続いていた。これを憂いた村の役人達が集まり「何かよい方法はないか」と話し合い、神に伺いを立ててみることになった。その結果、「全部の御嶽に願をかけよ」とのお告げが出た。そのお告げにより早速、村の人達は全員集まって、すべての御嶽に御願をすることになって、手に棒を持ち、鐘を打ち鳴らし、願い事を唱えながら御嶽から御嶽へと廻った。その途中、列の後方にいた老婆が「このマムヌよろう」と叫び声をあげた。しかし、他の村人達には何も見えない。村人達が何かあったのかと老婆に尋ねると、老婆は「マムヌが舌を出して嘲り笑っている。プーキはこのマムヌの仕業だ」と言った。そこで、村人達は、老婆の指示にしたがって「マムヌ」を取り囲み、それぞれ持っていた棒でめった打ちにして退治した。
やがて、御嶽への御願も無事に終わり、人々はそれぞれの家路についた。その後は、プーキ(疫病)も下火になり人々は安心して暮らすことが出来た。そのため、人々は、御嶽の神に感謝して、村の繁栄と人々の無病息災を祈って棒踊りを奉納した。
棒踊りは、2人棒、3人棒、5人棒、10人棒とあったと伝えられる。今ではその全部を知る人はいないが、一部の川満の人々の努力で2人棒と5人棒が踊り継がれている。
なお、皇紀2346年は、西暦の1686年にあたり、宮古全島を荒らしまわっていた与那覇原軍によって四散していた浦島や川満原、ミヌスマなどの川満の古い邑々の生き残りを川満原跡に集めて新しい川満の村立てがなされた年と一致する。このことは、川満の棒踊りのはじまりを考える上で興味深い。

市指定無形民俗文化財 荷川取のクイチャー

指定年月日: 昭和62(1987)年3月23日

荷川取のクイチャー

平良の荷川取一帯で、豊年祈願、雨乞い、男女の娯楽として、昔から踊り継がれてきたものである。伝承によれば、昔は一日の仕事を終えた村の若い男女が、毎夜「ンミャガーニのウプユタマ」(宮金家東方四辻)に寄り集まって明け方まで踊り明かしたという。豊年祈願、雨乞い、恋情、世の中を風刺した内容等がクイチャーアーグに盛り込まれている。
この荷川取のクイチャーの踊り手人数は定まっていない。寄り集まった村の老若男女が自由に参加し「サッサー・サッサー」のかけ声とともに円陣を形成、円陣が整った頃に歌が始まり踊りに入る。また、唄い手も決まっておらず、集まった人の中で歌詞を知り声のよく通った人が、ふつう、音頭取りとなるようである。
荷川取のクイチャーについて地元では「地煙りを立てるほどに踊らないと雨は降らない」「クイチャーブドウイヤドゥプンダイ(クイチャーは自由に体で表現するものだ)」と言い伝えており、「ズナラド・ズナラ(地響きを立てろ)」と囃子ながら大地を蹴り、地煙を立てるように大胆に跳ね踊る様はまことに豪快である。
クイチャーは地域によってそれぞれ特徴がみられるが、中でも、荷川取のクイチャーは威勢がよく躍動感にみち溢れており、過酷な自然と社会状況の中で逞しく生きた村人達の姿を髣髴させる。
荷川取の民俗芸能の変遷、および、人々の風俗・習慣を知る上で、この荷川取のクイチャーは貴重な無形の民俗文化財である。

市指定無形民俗文化財 松原の獅子舞い(シーシャ)

指定年月日: 平成2(1990)年10月20日

松原の獅子舞い

毎年旧暦の5月4日に行われるハーリー(海神祭)の際、ズガキと称する海岸端の広場で海上安全、豊漁祈願および魔除けの行事として演じられている。
松原のハーリーでは、その日の早朝、集落のツカサ達によりカーニ御嶽、大泊御嶽アンツァー御嶽、ズガキ御嶽の順に御願行事が行われる。その後、余興として競漕が2回行われる。
海上での行事が終わると、舞台はズガキの広場の祝宴に移り、いよいよ獅子の登場となる。獅子は雄獅子と雌獅子の二頭獅子で、獅子舞は獅子役と囃子役、三味線の伴奏で構成される。獅子役は、獅子頭(シーシャ)を操作する役と尻尾の部分をあやつる係の2人で囃子役(タースビー)はターサ(六尺)とツヅンフチャ(小太鼓役)各1人、三味線は1~2人で行われる。獅子役は、獅子頭の鼻の穴あるいは口の穴からターサーの動きを見てそれに合わせて勇猛に獅子頭を動かし、尻尾の者も体をくねらせて呼応する。獅子の舞い方は即興的で、小太鼓の伴奏も素朴である。
宮古のハーリーで獅子舞いが演じられるのは久貝・松原集落だけである。中でも松原の獅子舞いは、組織的に古くから受け継がれてきており、人々の風俗・習慣を知る上からも貴重な無形の民俗文化財である。

市指定無形民俗文化財 上区の獅子舞い

指定年月日: 平成2(1990)年11月14日

上区の獅子舞い

サズガー、ウッザンミ、ザラツキ゜、ユナバリ、パナキシャの5集落は、明治25年、下里添村として下里村から行政分離されたという。その際、村分けの祝いとして下里の主は、下里村の守護神である2頭の獅子を下里添村に贈ったという。その後、下里添村では、毎年旧暦8月15日に豊年祭を催し、獅子舞をブンミャー御嶽に奉納する習わしとなり、上区の獅子舞として現在に至っている。
下里添村は大正10年に下里添上区と下里添下区に分字、上区はその後、上区部落、戦後は下北部落と称するようになった。
上区の獅子舞は、始めと終わりに厳粛な神事が執り行われる。獅子は上区部落の魔除け、厄除け、区民の協和、豊作の守護神として祀り、崇められている。現在の獅子舞は、昭和23年に新造され3代目に当たる。

市指定無形民俗文化財 うるかクイチャー

指定年月日: 平成2(1990)年11月14日

うるかクイチャー

クイチャーは、宮古全域に古くから踊り継がれてきた野外の集団円陣舞踊である。クイチャーとは、「声合わせ」「神の魂を乞い願う」ともいわれる。願いが成就した時の喜びを老若男女が心を一つにして表現していく。クイチャーは、御嶽で豊年を祈願し、雨乞いをするのが習わしであったが、村の青年男女が寄り合い、歌い踊るようになった。
うるかクイチャーは、砂川部落独特のものである。昔、若い男女が昼間の労働から解放されて、夜の一時を楽しく歌い踊る様子と、好きな彼女の踊りを輪の中から手を取り袖を引いて連れ出し、時の立つのも忘れて語り合う様子を歌ったものである。

市指定無形民俗文化財 イラウタオガニ

指定年月日: 平成6(1994)年6月25日

タオガニアヤゴダキ
イラヨガマーンヨ
ツームソラアース
ンーミーソーラス
アヤゴテイヤ、ニヤーンヨ
アツァガヨーマイ
ソローマインミャチ
イダーシイヤ
オミオキデヨー

ニガズバイ
コノヤーノナカンナヨ
テカミバイノ
カギトコロウインナヨー
ユーズトテャアンド
バキャニンゾタヨー
ユウズトテャアンド
パイノヨガズヨー

タオガニアヤグのように
本当にそうではないか
肝(心)を晴々とさせるものに 
胸を晴々とさせるものに 
アヤグ程のものは、ないよ
あすの夜も
揃っておいでよ
アヤグを唄って  
お聞かせしようぞ

願い事のよく叶う
この家の中には
願い事のよく叶う
よい所にはよ
お祝いごとだけが
さあ、われわれの仲間は
幸せなこと、祝い事だけが(栄えを)
あるように願おう パイ(栄える)

タオガニは、唐金という人が、これまで歌い継がれていた古謡をはじめて整理、歌い伝えたと言われています。
また、イラウタオガニと宮古トーガニとは旋律がことなる。
イラウタオガニは、お祝いの座や酒座でよく歌われますが、歌の主題は、自然、恋愛、親孝行、教育、情け等に関するものを即興で表現していきます。
現在大衆化している「伊良部トーガニー」は1960年代、国吉源次氏によって歌われ、普及していったものである。
伊良部では、各字地域で抑揚や旋律に若干の違いがあり、「サーダヤウ」「フンナカヤウ」「イラウヤウ」等で歌われていた。宮古を代表する叙情歌で、へ短調、変ハ短調で主に歌われていた。現在受け継がれている歌詞、歌い方は、九つである。
伊良部地区では、9月15日の晩「いらぶトーガニー大会」を開催して普及、継承に努めている。

市指定無形民俗文化財 佐良浜ミャークヅツ

指定年月日: 平成6(1994)年6月25日

佐良浜ミャークヅツ

旧暦8月、9月の申午(キノエウマ)の日から4日間「ムトゥ」を中心に佐良浜の人達総出で盛大に行われる祭りである。
ミャークヅツを行っているのは、池間島、平良市の西原地区の三箇所のみである。
初日を「アラビ」2日目を 「ンナカヌヒー」 3日目を「アトヌヒー」最終日を「ボートイビー」と呼んでいる。
ミャークヅツの由来は2つあるが、仲保屋の池間の主が、税金(人頭税)の完納への褒美として祭りを与えたという説と、一人の子が亡くなって、その悲しみで人生の無情から、現世を楽しく生きようとして始まったとの説が伝えられているが、前説が有力である。
ミャークヅツには、いろんな仕来りがあり、それを司るのは、各ムトゥのツカサウヤを中心にミーウヤ(ミーイディウヤ、アライディウヤ)が行います。池間邑(マジャ、アギマス、マイヌヤー)では、数え年47才、前里邑は50才からミーウヤになります。
池間邑のムトゥは、1320年久米島よりマジャ3兄弟が渡ってきて、部落建てをしたことを物語っている。

市指定無形民俗 野原のマストリャー

指定年月日: 平成7年(1995)年3月1日

野原のマストリャー

旧暦8月15日に、上野地区野原で行われる豊年祭である。午前中、大グスク内の拝所で婦人が祈願し、夕方には、4箇所のマスムトゥ(貢租を集めた場所)で、酒・肴を囲んで男たちが直会をする。公民館の広場では、青年男子による棒術4組と、婦人の踊りが演じられる。婦人の踊りは数列縦隊になり、前列はくば扇、後列は4つ竹をもって(抱き踊り)と(投げ踊り)で構成されている。最後に巻踊りとクイチャーを踊る。「マストリャーはじめの歌」にこの踊りはふつうの踊りではない、地頭主(役職名)の許しを受けて踊るのだ、という意味の歌詞があることから、苦渋に満ちた人頭税時代の面影を反映しているのがわかる。宮古諸島の芸能の中では特異な民俗芸能である。

市指定無形民俗文化財 新里の豊年祭

指定年月日: 平成7(1995)年3月1日

新里の豊年祭

旧暦の6月のつちの日に行われる行事で、獅子舞、棒振り、女の踊り(引き踊りと巻き踊り)、および綱引きなどで構成されている。
 豊年祭の起源については不明であるが、1771年の明和の大津波によって壊滅的な打撃を受けた部落が、海岸近くにあった元島から現在の位置に部落を建て、また伊良部島などから移住してきた人々が信仰を築く際、五穀豊穣を感謝し、部落の発展を祈願して始めたという説がある。
獅子舞で用いる獅子は、雌雄に分けられ、雄は頭が短く牙をもち鋭い顔つきをし、雌は頭が長く優しい顔つきをしている。2頭の獅子は囃立てると頭をもたげてまるで生きているかのように練り歩く。棒振りは、激しく、かつ、勇壮である。掛け声も勇ましく、男達が跳び上がり棒を激しく打ち合う様は新里部落の村建に燃えた昔の人々の熱気と気迫がひしひしと伝わってくる。勇壮な男の棒振りとは対称的に女の踊りは哀調を帯び、何かを切々と訴えているように見える。

市指定無形民俗文化財 宮国の大綱引き

指定年月日: 平成7(1995)年3月1日

宮国の大綱引き

宮国部落の旧盆の行事の一つで、キャーン(和名:シイノキカズラ)という植物を材料に網をつくり、宮国公民館前の大通りで行われる。「西里」と「東里」のふたつの組に分かれて綱を引き、綱引き後若者達はデーロイと呼ばれる押し合いを公民館前の4つ角で行い、その後、老若男女が円を組み宮国のクイチャーを夜更けまで踊る。
この大綱引きは、豊穣を祈願する祭りであるが、その起源については不明である。しかし、農作物の収穫を祝い祈願する御願綱として、また、疫病が流行すると災厄を追い払うために、時には旱魃が続くと雨乞いのために、あるいは、農作物の豊凶を占う等の意味があると伝えられている。
宮国の大綱引きの特徴は、他地域の綱引きにはない強い団結力を元にした勇壮さにあり、躍動感に溢れ、祖先のたくましい生活力を伝える上で貴重な無形の民俗文化財といえる。宮国のクイチャーは、女の歌には男が、男の歌には女がそれぞれ交互に踊るという特徴をもち、歌詞と踊りをとおして往時の人々の風俗や習慣を知る上で貴重な民俗芸能といえる。
近年では、旧暦7月13,14,15日の旧盆の3日間だけ行われている。

市指定無形民俗文化財 友利獅子舞

指定年月日: 平成9(1997)年9月11日

友利獅子舞

獅子の起源については不明だが、古老の話によれば、約250年の歴史があるという。昔は疫病、火事、旱魃等がおこるとすべて悪霊の仕業であると思い、村人達は総出で三尺程の棒を持ち、獅子を先頭に道端の石垣や草木を叩ながら部落内の道を隈なく廻った、と伝えている。1830年頃から災害の発生しやすい夏8月頃に魔除け、厄払い、無病息災、五穀豊穣の祭りとして 獅子舞を一年越しに行う様になり、現在に伝承されている。
友利の獅子舞は最初に法螺の合図で始まる。鉦(4~5人)、アラスグナ(煽役)2人によってマキャーブドス゜(巻円舞)を3番程度踊る。次に獅子舞に移り、寝ている獅子お誘い出して煽る。さらマキャーブドス゜を3番程度踊り、再び獅子舞いに移る。最初に歌を1番だけ歌い踊り終了する。

市指定無形民俗文化財 友利クイチャー

指定年月日: 平成9(1997)年9月11日

友利クイチャー

昔、ブンミャー(村番所)で機織りさせられた彼女等は、リーフに織り成す白波が上布の模様に見える事から、小浜の砂が粟になれとの願いをこめてクイチャーアーグに仕上げたという。昼間の労働から開放された若者達は夜の巷に集まり、面白おかしく男女の様子まで歌い踊ったりしたという。
友利のクイチャーは、最初にマキャーブドス゜(巻円陣)を踊る。踊手全員が円陣を作り、体は円の中心に向かって足を交互に踏みながら手拍子を取ってクイチャーアーグを歌う。歌が終わると全員右に向きを変え囃しながら4,5番程度踊る。その後、クイチャーに移るが、これも、マキャーブドス゜同様体は円の中心に向かって歌う。歌が終わると、今度は、向きを左に変え囃しながら威勢よく大地を踏みならして踊る。友利のクイチャーは男踊り、女踊りの別はなく、男女一緒に大地を踏み鳴らして踊る威勢の良さが特徴である。

市指定無形民俗文化財 比嘉の獅子舞い

指定年月日: 平成17(2005)年9月27日

比嘉の獅子舞い

1913(大正2)年に始まったと伝えられる。士族と平民が字有地の財産を巡って争い訴訟事件にまで発展、比嘉部落の将来を憂慮した双方は、1912(明治45)年和解した。その和解記念の祝賀行事に獅子舞・競馬・角力などを催したという。この行事は「パツカショウガツ」(旧暦1月20日)と呼ばれる。以来、今日まで部落の繁栄と無病息災を祈願し継承されている伝統ある獅子舞である。

市指定無形民俗文化財 池間島のミャークヅツ

指定年月日: 平成17(2005)年9月21日

池間島のミャークヅツ

毎年旧暦8月~9月の甲午の日から3日間にわたって、4ヵ所のムトゥ(真謝(まじゃ)・上げ桝(あげます)・前(まえ)ぬ屋(やー)・前里)を中心に行われる池間島最大の祭祀である。各ムトウの祭儀は、55歳以上の男性で構成されるムトゥヌウヤ達を中心に年齢階梯的組織で運営される。期間中、各ムトゥに所属するムトゥヌウヤ達は、早朝4時~5時ごろムトゥに集まって、酒を酌み交わしながらひとときを過ごす。2日目早朝には、前年のミャークヅツ以後生まれた乳児を家族がムトゥの祭祀集団のメンバーとして登録するためのマスムイの祭儀がある。また、この日は老若男女がウパルズ御嶽に参拝する。男性が入れるのはこの日だけである。夕方真謝ムトゥを先頭に、各ムトゥヌウヤ達が、池間と前里の境界にある水浜の広場の所定の位置に座り、ツカサンマ達によるクイチャーが踊られたあと、ムトゥヌウヤ達はじめ、一般参加者をまじえたクイチャーが盛大に演じられる。